麺、スープ、味付け玉子、長ネギ、海苔はもちろん、調理に必要な道具をすべてはこんできた
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3月某日。「らーめん 森や」(以下、森や)の林佳広・純衣夫妻はいつものようにラーメンを作っていた。
が、ここは横浜の店舗ではない。
山梨県甲斐市にある「黒富士農場」の施設内にある台所。
「黒富士農場」の従業員にラーメンを食べてもらおうと、スープや自家製麺や味付け玉子はもちろん、
寸胴鍋や菜箸や丼などをクルマに積み込み、朝5時に横浜の店を出発した。
生産者を店に招き、料理をふるまうのなら理解できる。実際多くの料理人がそうしてきた。
ところが、「森や」ではこれまでに8回ほど「黒富士農場」に出向きラーメンを作ってきた。
余計な仕事がふえるだけでなく、店を休まなければならない。
なぜ「黒富士農場」でラーメンを作るのか。林に話を訊いた。 ラーメン2種類と麺も2種類準備した

ラーメンは、「三ツ星醤油らーめん」と「三ツ星醤油にぼしらーめん」の二種類。ラーメンの種類こそ少ないが、店同様、細麺と中太ちぢれ麺を用意した。一人ひとりにラーメンの味と麺の太さを訊き、ラーメンを食べてもらった。
「生産者は、自分たちが出荷したものを食べる機会はほとんどありません。『黒富士農場』の丸鶏で作ったスープと、放牧卵で作った味付き玉子を食べてもらうことで食材が里帰りできると思っています」
〈里帰り〉という言葉を使いこそすれ、恩返しとはひと言もいわなかった。どんなに感謝しても感謝しきれないからだ。化学調味料を使ったラーメンから無化調に切りかえるにあたり、「黒富士農場」の丸鶏の存在はあまりにも絶大だった。
20数年前、トマムの「カリフリ農場」から襟裳の高橋祐之につながった。高橋に「黒富士農場」の向山茂徳を紹介され、18年ほど前、林は純衣と甲斐を訪れた。 「森や」に改名後、14か月間赤字が続いた

無化調ラーメンを作りたい。そのためにも丸鶏を使わせてほしいと向山に頼んだ。社長を退き、会長となったいまも向山はそのときのことをはっきりと覚えていた。
「林さんの純粋さに惚れ、丸鶏を使ってもらうことにしました」
林の情熱にほだされたが、釘をさすことも忘れなかった。自分が歩んできた苦い経験を林に伝えたのだ。
向山は1984年に「黒富士農場」を開場。5年後、ケージ飼いがあたり前だった養鶏業界でいち早く平飼いを導入するなど、飼育環境や自然環境に配慮した養鶏に取り組んできた。
2002年には日本初となるオーガニックの養鶏に着手した。このときばかりは長年連れ添ってきた妻かず美でさえ、あきれ返った。
自分が正しいと思っていても世のなかがついてこない。それを覚悟してほしいし、またそうでないと自分も駄目になる、と向山は諭した。
実際、向山のいう通りだった。いまでこそ無化調ラーメンを謳う店がふえているが、18年前はなかなか受け入れてもらえず、14か月間赤字が続いたと純衣はふりかえる。
「主人も私も向山さんにいわれたことの意味をやっと理解しました。でも、後戻りする気など主人にはまったくありませんでした」
徐々に客がふえていったが、1日に30人しか来ない日もあった。
「『あなたひとりで営業できるでしょ』といったらものすごく怒られました(爆笑)」
いまは毎日140人もの客が無化調ラーメンを食べに来てくれるようになった。 ラーメン屋にとっての〈土〉を大切にする

江頭謙一郎がトマムに「カリフリ農場」を開場したのは1998年。その数年後から林夫妻は毎年トマムへ出かけるようになった。
初めて行った頃、「今年は豊作だ」、「今年は不作だ」と江頭は一喜一憂していた。
それから10年後。「今年は不作だ」と嘆いていたが、不思議と余裕がありそうだった。その理由を林は尋ねた。
「ようやく納得のいく土になった。今年は不作でもこの土があればもう大丈夫。だから今年は余裕があるんだ」と江頭は答えた。
ラーメン屋のとっての〈土〉は何か。
「生産者が作ってくれるものです。彼らがいないとラーメン屋は何もできません」
ラーメンを食べてもらっているのは「黒富士農場」だけだが、「カリフリ農場」には江頭が送ってくれる放牧豚で作ったチャーシューを持参する。
生産者が届けてくれたものを別の形にし、〈里帰り〉させる。
それが生産者への感謝だと、林は信じているのである。

次回最終回は、「やまつ辻田」を使った料理を紹介する。(敬称略)
(取材・文/中島茂信、撮影/海保竜平) 【らーめん 森や】
		神奈川県横浜市栄区長沼町339二本松ハイツ105
		 045-390-0881
		営業/11:30〜15:00、17:30〜23:00
		定休日/火曜
		駐車場あり
		https://twitter.com/chiko3yoshi3
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