世阿弥「風姿花伝―人生の七つのステージ」
世阿弥は能役者の人生を七歳から五十歳以上までの七段階に分け、それぞれの段階での稽古の仕方を示しています。
一、 |
能においてはだいたい七歳から稽古を始める。子供が自然にやることの中に、おのずと具わった風情というものがあるから、自然に出てくるものを尊重して子供の心の赴くままにさせるがいい。 |
二、 | 次の十二、三歳。何よりも稚児姿なので、それだけでも幽玄である。声も立つ。欠点も見えず、長所はさらに華やいで見える。しかしながら、このころの花は本当の花ではない。その時限りの花なのだ、と世阿弥は言うわけです。どんなにこの時がよくても、そこで一生がきまるわけではない。だから、このころの稽古では基本を大切に、一つ一つの技術をしっかり稽古することがだいじである。
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三、 | 次にやってくるのは青年期です。世阿弥はこの十七、八歳の頃、人生で最初の関門がやってくると言います。能役者にとって、それは声変わりです。稚児のころ高くてよく通る声は失われ、少年の愛らしさが消えていきます。当然人気も落ち、青年は失望を味わうでしょう。その時にどうすればよいのか。たとえ人が笑おうとも、そんなことは気にせず、自分の限界の中で無理をせず、声を出す稽古をせよ。こここそ生涯の分かれ目だと思い、能を決して捨てないという気持ちで稽古をしなければならない。世阿弥はここで、人生あるがままの自然から、意志による選択へと移っていく転機を指摘しています。
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四、 | そして迎えるのが、二十四、五歳です。声変わりも乗り越えて体も一人前になり、名人に勝ったりもするが、慢心してはいけない。ここが初心だと世阿弥は言います。
ただ、人ごとに、この時分の花に迷ひて、やがて花の失するをも知らず。
初心と申すはこの頃のことなり。
「やがて花の失するをも知らず。」新しさゆえに集まる注目は長くは続かないから、そういう時こそ初心を忘れず稽古に励まなければならないのです。 |
五、 | 次にやってくるのは三十四、五歳。この頃が能の絶頂期であるとしています。
上がるは三十四、五までの頃、下がるは四十以来なり。 |
六、 | そして迎えるのが四十四、五歳です。この頃には観客から見ても、自分の感覚としても花が失せてくるのがはっきりしています。この年代ですべきこととしてもっとも重視しているのが、自分よりも一座の後継者に花を持たせて、自分は控えめに出演するのがよいと言っています。 |
七、 | そして七段階に分けた最後の段階「五十有余」がやってきます。世阿弥はここで、父・観阿弥の姿を思い出しています。
観阿弥は、五十二歳で亡くなる十五日前に、浅間神社で奉納の能を舞ったのですが、動きが少なく控えめなその舞は、いよいよ花が咲くように見え、この花を残すために、今までのすべてのことがあったと言えるのではないか。そう感じたほど、世阿弥にとって強烈な印象を残す出来事だったのでしょう。 |
世阿弥が「風姿花伝」に記した七段階の人生論は、衰えの七つの段階を語っているとも言えます。少年の愛らしさが消え、青年の若さが消え、壮年の体力が消える。何かを喪失しながら、人間は人生の段階をたどっていきます。しかし同時に、この喪失のプロセスは、喪失と引き換えに何か新しいものを獲得するための試練の時、つまり「初心の時」でもあるのです。老いたのちに初心がある。そしてそれは、乗り越えるためのものだ。そう考えると、これからの人生に何だか希望が湧いてくるのではないでしょうか。
(「世阿弥 風姿花伝」土屋惠一郎著 NHKテキスト)